
溶岩泥流より逃げ切った13世住職

江戸時代の1783年(天明3年)8月5日、浅間山史上最も大きな大噴火が発生しました。
噴火によって発生した大規模泥流は、吾妻川を流下したため、流域の村々を次々に飲み込んで洪水などによる大被害を与えました。
長野原町も一瞬にして溶岩泥流に溢れ泥海と化しました。
死者約200人、鎌原に次ぐ大きな被害を受けました。
雲林寺の本堂も流失されました。
当時の住職であった十三世 枝転梅応(してんばいおう)大和尚はご本尊と過去帳だけを持って溶岩泥流から逃げ切りました。
過去帳は、故人様の命日や戒名を記載しておく大切な仏具です。
枝転梅応(してんばいおう)大和尚が過去帳を持って逃げてくれたお陰で、雲林寺の記録は明暦四年(1658)より、保管されています。
天明三年(1783)の浅間山の噴火からのわずか23年後、長野原町の有志により雲林寺は再建されました。
現在の本堂です。
本堂には以前の本堂の柱が使われております。良く見ると、浅間山噴火の火災による焦げたような跡が見られます。
長野原の犠牲者は全て当山の過去帳に記されております。

災害当日の今日、心を込めて供養致しました。
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